小津安二郎監督の東京物語をみました。
いい映画だな、と。
評判も聞いていましたが。こういうのをいい映画というのかなぁ、と。
言い方が偉そうだろうか。。
本当はまたいつかみてなにか考えを整理できれば僕の人生ももうちょっといいものになるのかもしれないけど
ざんねんながらみない。
多分。
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あたたかい、いいイメージの「かぞく」というものは、
血のつながりがあるという事だけで得られるものではなく、
また人生のはじめ十数年一緒に暮らし、
子供の側としては育てられた、というだけで、その後ずっとなんの努力もなしにそこにあり続けるのでもない、
ということを、自分の実際と合わせて考えても
感じてしまいました。
一方で、一番近くに住んでいながら一番遅くに来て
母の死に目に合えなかった息子が
涙を流すシーンも印象深かった。
つながりはなくなってしまっている訳ではないのかな、と。
息子達も、東京に出てきた親によくしたい気持ちは持っている。
でも自分たちの生活もある。忙しい。美容院の経営。お医者さん。
こうだったらいいな、とか、
美しい世界、幸福な世界を描き出すベクトルでは必ずしも無くて。赤毛のアンのベクトルとはずいぶん違う。
(とはいえ周吉さんととみさんは、ご自分達で言っているように幸せな方のようにも思えますが)
現実のかなしい面も作品にしてみせてくれていますのですよね。
それを描いている。
ところで映画や芸術作品って、オシゴトと違って「何々をこうするために」という目的は必ずしもないですよね。
でもなんか、その、かなしい面を作品にしてもらうと…観た側はどう感じるかしら。
なんか、目的じゃないけど、目的みたいなのがあるとしたら。
映画を見る事でなににどんな影響があるだろう。
「哀しいものだな、でもその通りだ。かなしいなあ。しかし一方で現実において他のありようはないものか」
「自分の現実もこのとおりだ。自分はこの物語の中でこの登場人物だ。(ちなみに僕は金子しげさんかな)親はこんな事を感じながら生きているのかもしれない。」
少し、作品を観た人の現実を変える事も、ないとは限らないか………?
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